***ことば


初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。 言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものはこれによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。
そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
そしてやみはこれに勝たなかった。
  (ヨハネ伝1.1〜1.5)


 この聖句はよく引用されていますがその何れもが形而上的、観念論的に理解されているようです。ここに出て来る言(ことば)という言葉にひっかかっているようです。

 例えばここに赤い物が有るとします。ブラジル人に「これは何色ですか」とたずねると「ベルメーリョです」という答がかえってきます。イギリス人なら「レッド」、ロシア人なら「クラスヌイ」、ドイツ人なら「ロート」です。この様に国によって、民族によって、表現は違います。

 しかし赤いということは世界中、いや宇宙どこへ行っても同じです。言葉の表現法を知らない赤ちゃんでも赤い物を見たとき言葉以前の意識で「赤」と意識します。だからその育った環境の中で「赤」という言葉を覚え使いこなす訳です。

 聖書の「初めに言」とは、各民族の具体的な言葉になる以前の意識としての言に他ならないのです。ですから、私達の想念と行為は心の中で色(“光”)として記録される筈です。そこのところを、***光の先達者134は次のように述べています。


「さらに、人間の意識に記録されている想念と行為のテープを見ることも可能である。
肉体的な外面に出ない意識の記録は、すべて正しく色別に記録されており、否定する事は不可能である」。


 人は脳でものを考えているのではありません。心で想い念じそれにより行動しています。では脳は何をやっているのかと言いますと、心から送られてくる想念を演算処理し肉体をコントロールし其の結果や肉体からの情報等を処理し心に**フィートバックしています。
 脳は情報を処理するコンピューターのようなものです。コンピューターの場合データやそれを処理するプログラムはCD等の情報を入れる器(物)に入っています。しかし入っている情報自体は物ではありません。器を分解してみても情報だけを特定することは出来ません。

 人の場合は情報(想念)やそれを創造、処理するプログラム(意識)は心です。物ではありません。ですから脳(物)を幾ら調べても心は見つかる筈はありません。
 しかし、脳のある部分に障害が起きると記憶が失われたり種々の機能が損なわれる事が分かっています。脳に心があるのではと思わせている一因です。これは脳のメモリー機能や回路の損傷です。CDに傷を付けたり、電源コードに足を引っかけて仕舞ったようなものです。脳は演算に必要なソフトの一部や、データの一部を一時メモリーに蓄えておくようです。

 聖書の言(ことば)は心に色(“光”)で書かれたマシン語。言葉はそれを脳というコンピューターで演算処理しモニターの画面に表示された様々な言語といったところです。※バベルの塔の同じ言葉というのも言葉以前の言(意識)。1と0(あるか、ないか)で書かれたマシン語に相当します。



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