初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。 言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものはこれによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。
そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
そしてやみはこれに勝たなかった。
(ヨハネ伝1.1〜1.5)
「さらに、人間の意識に記録されている想念と行為のテープを見ることも可能である。
肉体的な外面に出ない意識の記録は、すべて正しく色別に記録されており、否定する事は不可能である」。
人は脳でものを考えているのではありません。心で想い念じそれにより行動しています。では脳は何をやっているのかと言いますと、心から送られてくる想念を演算処理し肉体をコントロールし其の結果や肉体からの情報等を処理し心に**フィートバックしています。 脳は情報を処理するコンピューターのようなものです。コンピューターの場合データやそれを処理するプログラムはCD等の情報を入れる器(物)に入っています。しかし入っている情報自体は物ではありません。器を分解してみても情報だけを特定することは出来ません。 人の場合は情報(想念)やそれを創造、処理するプログラム(意識)は心です。物ではありません。ですから脳(物)を幾ら調べても心は見つかる筈はありません。 しかし、脳のある部分に障害が起きると記憶が失われたり種々の機能が損なわれる事が分かっています。脳に心があるのではと思わせている一因です。これは脳のメモリー機能や回路の損傷です。CDに傷を付けたり、電源コードに足を引っかけて仕舞ったようなものです。脳は演算に必要なソフトの一部や、データの一部を一時メモリーに蓄えておくようです。 聖書の言(ことば)は心に色(“光”)で書かれたマシン語。言葉はそれを脳というコンピューターで演算処理しモニターの画面に表示された様々な言語といったところです。※バベルの塔の同じ言葉というのも言葉以前の言(意識)。1と0(あるか、ないか)で書かれたマシン語に相当します。 |